いま、憲法は「時代遅れ」か、を読んで

樋口陽一先生の著書です。


サブタイトルは「主権と人権のための弁明」です。

「弁明」という言葉を目にして、「かなり控えめだな」と思いました。

が、著書のはじめに、「弁明(アポロギア)」についての説明が記されていました。

もともとギリシア語のapologiaに発する言語は、法廷など議論の場において自らの立場をはっきりと述べ事理を明らかにすることを意味しており、それはプラトンの「ソクラテスの弁明」にも見られるとおりです。

なるほど、言葉の意味をその文脈で読み取ることの重要性を改めて実感しました。

本文は、「立憲主義」についての認識が浸透していない状況を実感したことから、「憲法学者」は今まで、何をしててきたのかと自問するところから、始まります。

この間、憲法「改正」論議が活発になされています。

しかし、国民が、主権者としての国民が「憲法」について、その性格とともに、歴史的通過点として位置付けること、これらを踏まえた上での議論があまりなされていないように思います。少なくとも、十分とは言えません。

この本でやりたい第一点は、憲法論の当たり前の基本を改めて世間に受けとめてもらいたいということです。

と、述べられているのは、実に「素直」な期待感だと思いました。

出張先の新潟に向かう新幹線でほとんど読み、また、会場(ホテル)に早めに行って、読むなどして、一気に読み終えました。というか、それだけ惹きつけられる内容だったのだと思います。

多くを紹介することはできませんが、心に残った文章を紹介したいと思います。

憲法24条についてです。

24条には近代家族の崩壊の要素も含まれている、と認識しておいた方がいい。むしろ、崩壊の可能性がありつつも維持されているから、その家庭は価値ある家族なのだ、それが24条の意味だということは、何度でも確認しておくことが必要だと思うのです。

夫婦別姓」を議論する際、姓が違うと、また、違いを認めると「家族が崩壊する」という人が少なからずいます。

しかし、それは、違う。単なる形式的な問題ではないと思います。

「個人の尊厳」から出発するという憲法の価値観からは、姓を同じにすることが大事なのではなく、姓のみならず、個々の違いを認め合い、尊重することの方が大事なんだと改めて思いました。

最後に、この本のベースは、法科大学院での特殊講義をした時のノートを下敷きにされたとのことです。

意外でした。でも、このような講義を企画する法科大学院があるのだと、認識を新たにしました。