母と私「過去を受け入れることからの始まり」 「アスペルガー症候群」ではなく「アダルトチルドレン」か。

偶然に以下の記事に出会いました。

 

yomikodesign.hateblo.jp

 

実は、昨日から、私は「アスペルガー症候群」ではないかと、感じ始めました。

これまでも、そのように思ったことは幾度かあります。でも、あまり、気にしないでいました。ただ、いろいろ考えると、「果たして?」と思い至るようになり、ネットで調べました。

 

アスペルガー症候群とは

アスペルガー症候群の診断は、簡単ではありませんが、特徴を挙げると。

特定の分野については驚異的なまでの集中力と知識を持ち、「空気を読む」行為が苦手、細かい部分に拘る(全体最適より部分最適に拘る)、考えが偏っている、感情表現が困難といった特徴を持つ。
出典 http://ja.wikipedia.org

同時並行に複数の業務をこなすことが出来ない、急な変更にうまく対応できない、細部に注意が集中し全体像把握が苦手等のためである。以上の性質からアスペルガー症候群を持つ成人は、接客やチームワークを必要とする仕事には元来向いていない。
出典 http://ja.wikipedia.org

こだわりが強く、対人関係がうまくいかない、他の人の気持ちが理解しにくいなど、職場だけでなく生活にも支障をきたしてしまいます。

 ん〜、「特定の分野に・・集中力」「こだわりが強く」「感情表現が困難」などは、あてはまるかな。対人関係については「うまくいかない」と言うより、「うまくいくように振る舞って疲労困憊になる」ってのが、これまでの私。

例えば、我が家の屋根に太陽光発電のパネルを設置したとき(約10年前)は、約2週間、パネルの相場、自治体の補助金の仕組(予算が決まる時期や申請方法、申請対象となるためのパネル設置時期など)を調べ、区への申請(私以外の申請者は、ハウスメーカーが代理)、東京電力とのやりとり(名義の統一)などに没頭しました。

振り返ると、住宅ローンの借り換えや、車の購入、自宅の購入についても、必要以上にこだわり、「知識」を得ていたのかも知れません。

対人関係は、「疲労困憊」になるので、職場では「なるべくしゃべらず」。プライベートでも、一時期は、朝活などに積極的に参加していたものの、この1年は、ご無沙汰しています。簡単に言うと、人と接するのが疲れるので、できるだけ避ける、という行動。結果、今は、「リアル」な友達がいません。

 

でも、こうしたことが原因となり、周囲に理解が得られなくて、2次障害が発生することもあるとのこと。

具体的には、

うつ病
・不安障害
強迫性障害
睡眠障害
精神疾患

が、併発することがあると。←今、ここにいます。

 

アダルトチルドレンとは

アダルトチルドレンという言葉自体、忘れていました。アスペルガー症候群に没頭していたからです。でも、先に紹介した記事で思い出しました。

アダルトチルドレンは病名ではありません。
機能不全家族で成長をした場合、大人になっても生きづらさを抱えている場合があります。
そのような人達の事を総称して、アダルトチルドレンと言います。

とのことです。それで、試しに自己診断をしたわけです。

チェックの結果は、

アダルトチルドレンである可能性が高いようです。


結果の内容から、以下のようなパターンに該当する可能性があります。
幼少期や思春期に下記の様なことはありませんでしたか?


○表面だけよくふるまう家族のパターン
・他人の目を気にした家族だった

○秘密や隠し事のある家庭のパターン
・家族に、外部に漏らしてはならない、いろいろな秘密があったり、隠し事があった

○親と子どもの関係が逆転している家族のパターン
・親の愚痴を聞かされた

○子どもを過度に甘やかす家族のパターン
・過度に甘やかされて育った
・親のひとりよがりや、さびしさなどの精神的欲求から溺愛された

○依存症のメンバーがいた家族のパターン
・親がアルコール、薬物、ギャンブルなどの依存症になっていた
・親が酔うと暴れるなど、何がいつ起きても不思議ではない状態だった

 

以上は、私が「そうかな」と該当した項目のみを挙げさせていただきました。

 

私の両親は、私が小学2年生の時(だったと思います)に、離婚しています。

だったと思うのは、はっきりとした記憶がないから。なぜなら、父が仕事上のトラブルを起こして、失踪したからです。

離婚して程なく、私と母と兄は、母の実家(自宅から徒歩2分)に身を寄せて生活しました。自宅に戻ったのは、2年後くらいです(確かな記憶がありません)。なぜ身を寄せたかというと、自宅に嫌がらせの電話がかかってきたり、時には、(酔った勢いで、父を悪く思う人達が)自宅まで来たことがあったからです。拾った100円を交番に届けたところ、わざわざ警察官が自宅まで来て、「父はいるか」と訪ねられることもありました。電話線は、中学2年生まで引かず、連絡先は、母の実家。なので、電話をするときは、そのために出かけて行きました。そして、自宅に戻った後も、祖母が寝泊まりしていたのです。

父のことについて、母は、あまり語りませんでした。代わりに、祖父が父のことを語りました。祖父が健在だったということは、中学2年生の時だろうと思います。私には、言っていることはわかるけれども、理解は出来ませんでした。

このような、生い立ちです。

そして、父のことについては、社会に出てから、詳しく知るようになったのです。

詳しく知れば知るほど、私はつらくなりました。

就職先で「お父さんは、何をしているの?」と聴かれたとき、反射的に「死にました」と答えたのも、その一端だと思います(すぐにバレますが)。

 

母は、一生懸命に働きました。難病になっていたにもかかわらずに。自分の身体よりも、働くことを優先にしていたのです。私と兄のために。

私の心の中では、父は「悪」、母は「善」というのがあたりまえになっていました。

 

しかし、私のこれまでの思いが根底から覆るときが訪れます。

それは、父からの電話がきっかけでした。これまで、一方的に、母を擁護する話ばかり聞いてきた私にとっては、ショックでした。世間で言う、男と女の関係。夫婦の関係もあったということがわかったからです。母も、認めました。苦しかったと思います。でも、それ以上に、私にとっては、「何が真実なのか」を知らずにはいられませんでした。なぜなら、先に述べたように、私にとって母は、絶対「善」だったからです。嘘でもいいから、否定して欲しかった。でも、正直な母は、嘘を言うことが出来ませんでした。今思うと、母の病気を悪化させたのは、私に責任があったのかと思います。死期を早めてしまったのではないかと。

それから、私の結婚。妻の両親は、私の父が犯した「罪」を知っていたため、特に義母が猛烈に反対しました。「(私の)顔を見るのも嫌」というぐらいだったので、会って話すことさえも出来ませんでした。話を聞いてもらいたいと、妻の実家の前で、待っていたときもあります。でも、義母は、私を見るなり、背を向けました。会えないなら、手紙を書こうと、母が入院していた病院から、手紙を送ったこともあります(今は、そのようなことがなかったと思うくらい仲良しです)。

様々な人達の協力を得て、ようやく、結婚するとなったとき、妻が東京で働いていたこともあって、私は、東京に行くことにします。代わりに、兄が、実家に戻ることを前提に。でも、今、思うと、あのとき東京に行くという判断が正しかったのか、後悔し、その思いを引きずっているのです。

私が東京に行ってから2年後の夏、私は、岐阜県恵那市での出張を終えて、名古屋駅に向かっている車中でした。携帯電話が鳴り、話すと、兄からでした。「おふくろが、危ないから、すぐに帰ってこい」と。不幸中の幸い、とは言えませんが、名古屋駅で同僚と別れ、病院へ向かいました。その間、兄から何度も電話が来て「早くしろ」と。名鉄電車に乗り換え、最寄りの駅からタクシーに乗って。その間も電話、電話です。ようやく、病院につき、病室に行ったとき、母の意識はなくなっていました。私の呼びかけに反応しません。私が来るのを待っていたかのように、医師が死亡の確認をしました。

私は、病院から搬送された母と一晩、過ごしました。でも、その時は、実感がありませんでした。話すことは、たくさんあったのに。唯一、本人に話す機会があったのに。

 

過去を受け入れることからの始まり

以上が、私の生い立ちと、母との関係です。

ここまで書いて、ようやく退職する決意が固まりました。思い残したことを打ち明けることが出来ました(この場が、適切かどうかはわかりませんが、私には、この方法しか思いつかなくって)。

 

最後に、お母さんへ

 これまで、ありがとう。お墓を作ることが出来なくてごめんね(兄に任せてあるから、口出しいないようにしているのだから)。孫の顔を見せることが出来なくて、ごめんね。今は、3人の父親として、父親らしくない、父親として、私なりに頑張っているよ。長男は、高校1年生(しかも、私と同じテニス部だよ)。長女は中学2年生(美術部で絵が上手い)。次女は小学5年生(ハキハキとして、伸び伸びとしている)だよ。みんな、明るくて、元気な子だから、安心して、見守ってね。

 もっと早く(6年前くらいかな)お母さんのところに行こうかと思ったけど、怒られそうだから、自分の寿命が来るまで待ちます。それまで、待っててね。

 

ようやく、過去の自分を受け入れることが出来ました。

この先は、不明ですが、今日を起点にスタートしたいと思います。

最後まで、お読みいただきありがとうございました。