私が「党議拘束弊害軽視論」をやめて、「党議拘束を緩やかに」という立場に変わった理由

未だに、ブログの方向性が定まらない、西村卓です。。

 

党議拘束」について、私なりに考えていたのは、2年6カ月前。その時は、「党議拘束を緩やかにする」ことに「疑問を感じ」、その後、「党議拘束自体を深く考えなくて良い」と考えてたんですよね。

しかし最近、国会での議論を聞くにつれ、「党議拘束は緩やかに」という考えに至りました。

きっかけは、「『主権者』は誰か」(日隅一雄著)

日隅一雄さんは、弁護士、ジャーナリストでした(2012年6月死去)。その日隅さんが生前、最後に出版されたのが「『主権者』はだれか」です。著書についての感想は下記の記事をご覧ください。

www.nishitaku.com

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上記、2つの記事の中で私は、

党議拘束を緩やかにする」を考える出発点は、国会議員が、ある法案にどのような態度表明を行うのかという場面で、国民の様々な意見を汲むことなく、所属する「政党が、予め、党としての対応を決定してしまうことが弊害にならないか」ということでした。

しかし、共通の目的を持って、その運営がきちんと決められていれば、ある法案について、どのような態度をとるのか(賛成、反対、一部修正など)、についても、党内論議で様々な意見を反映させる場を保障することができるのではないでしょうか。その議論の過程と、法案への態度(結論)を、ひろく国民に説明して理解を得るという努力をしてこそ、それが政党としての責任だと思います。

であれば、それほど「党議拘束」の弊害を強調する必要性は、あまり無いと思います。

 と、記述していますが、要するに「党議拘束弊害軽視論」です。

だったら、なぜ変わったのかの説明が必要ですよね。

憲法解釈の変更」で国のあり方が大きく変わろうとしてる

2年6カ月の間、「憲法解釈の変更」が閣議決定という形で行われました。単純化していえば、これまで「違憲」とされてきた「集団的自衛権の行使」が、解釈の変更によって、「憲法上行使が可能」となったわけです。180度の大転換です。もちろん、私は、この閣議決定を認める立場ではありません。でも今、憲法解釈の変更の具体化として法案化され、国会で質疑が行われています。

国のあり方を大転換し、集団的自衛権の行使を可能にすることについて、与党協議、政府内での検討が積み重ねられている経過があります。しかし、このことに異議を唱える与党議員が存在するんですよ。

toyokeizai.net

村上誠一郎衆議院議員小泉内閣行政改革担当相などを歴任。現在は衆院政治倫理調査会会長)は、自民党総務会で法案を了承するか否かの場面で、「疑問のある集団的自衛権に賛成することになる」と述べ、採決前に途中退席したんですよね。

党内一致が前提、でも最終的な判断は議員にまかせるべき

議員立法にしても、閣法(内閣提出)にしても、各政党が賛成するか、反対するか、議論するわけです。ほとんどの法案については、党内一致でしょう。だから、2年6カ月前に私が出した結論は、一部反対論者がいたとしても「党議拘束弊害軽視論」だったわけです。でも、今回は、違います。国のあり方を根本から、変えてしまうんですよ。

だから、その法案(集団的自衛権行使可能法案)に対する姿勢ってのは、憲法を守るのか、という姿勢に直結するんですよね。そう考えると「党議拘束を緩やかに」して、最終的な判断は議員個人に任せるべきだ、と考えが変わったんです。

私たち国民は、政党レベルにとどまらず、議員レベルで法案に対する姿勢を見ておかなければならない。議員が、その姿勢を貫くことができるのか、できないのかを。

まだ、法案の審議の行方は見えませんし、廃案にしなければなりません。というのは、先日(2015年6月4日)の「憲法審査会」で、3人の憲法学者がそろって、この法案を「違憲」と述べたわけです。

憲法に違反した法律を国会がつくろうとしてる。これを主権者が許してはいけません。と、私のように思う人もいれば、「必要な法律だ」という人もいるんですよね。いろいろな意見があって当然ですから。ただ、どの政党が賛成または反対したということだけでなく、政党の中で違った行動をする議員も存在するということに目を向けて欲しいんですよ。次回の選挙で投票する際、とても大きな参考になりますよ。きっと。

だから、あっさりと「党議拘束弊害軽視論」は捨てました。まあ、今考えると、あまり意味のある「論」ではなかったのかもね。