夫婦別姓を憲法論(平等論)と絡めるから、分かりにくくなるんです。「自己決定権」からのアプローチでいいんじゃないですか

夫婦別姓が議論になっていますね。まあ、以前から話題になっていますし、民法の改正案も準備されていますから、一日も早く、選択的「夫婦別姓」を認めるべきだと、わたしは、考えています。

憲法論(平等論)と絡めるから分かりにくくなる

先日、最高裁大法廷で弁論が行われました。大法廷での弁論ですから、民法の規定について、何らかの憲法判断がなされるのでしょう。

でも、夫婦別姓を認めない民法の規定が、憲法論と絡めるから分かりにくくなるんですよねぇ。特に平等論からのアプローチ。

原告側が主張したのは、婚姻時に夫の姓を選択するのが約95%で、これが、男女平等でないとの主張ですよね。まあ、あくまでも、マスコミの報道によるものなんですけど。

だったら、婚姻時に妻の姓を選択すれば問題は解決するんじゃないんですか?

現に、私たち夫婦は、妻の姓を選択しています。だとすると、私たち夫婦は、「男女平等」って言えるのではないかと理屈上は考えることができるわけです。なんか、違和感を感じませんか。

でも、問題になっているのは、「どちらかの姓に統一しなければならない」規定であって、これが、社会生活に不都合をもたらすという現実があるから、訴えているのではないかと考えることができるわけです。

だから、問題になっているのは、必ずしも、憲法論(平等論)ではないのではないか、と思うんですよ。

自己決定権からのアプローチ

わたしが考えるのは、平等論ではなくて、自己決定権からのアプローチです。

根拠となる条文を挙げるとすれば、第13条ですか。この条文からだと、幸福追求権というキーワードも導かれます。

男女平等ではなくて、幸福追求権、自己決定権なんですよ。

自己決定権からのアプローチだと、どちらかの姓に統一するのも自由だし、統一しないのも自由になります。それぞれが、話し合って、決めればいいことですから。

現行の制度だと、どちらかの姓に統一しなければならないのが問題ですから、選択できるようにすればいいわけです。

夫婦別姓に反対する人も、「家族の絆が弱まる」なんて理由にもならない理由で反対するんじゃなくて、もっと、マシな反対論を持ち出して欲しいです。

年内にも、最高裁の判断は出されるとの見通しですが、夫婦別姓を認める判断をする場合でも、「時代の変化」や「多様な価値観が広がった」というような理屈は持ち出して欲しくないです。