「党議拘束」について考えた−続きとは言えない続き

先日、「党議拘束を緩やかにする」ことについて、私なりの、若干の問題意識を述べさせていただきました。

その後は、あまり考えなかったのでしたが、ウオーキング中に、なんとなく考え始めて、ある程度、考えがまとまり「腑に落ちた」ので、私の思考の記録として残しておきます。

まず、「政党」について。

政党とは、共通の政治的目的を持つ者によって組織される団体である。

様々な、定義の仕方があると思いますが、要するに、国の(将来的な)あり方について、目的を共有でき、その実現に向けた人々の集まりである、といえると思います。

人々の集まりとなれば、その集団(政党)に参加するための資格や、参加した人(党員)の資格と権利および義務について、また、政党としての意思決定を行うという(総会、大会などでしょうか)運営方法などを定めることが必要になります。
そして、ある行為を行った場合に、党員資格を一時的に剥奪(または、除名)するという、「処分」についての定めも明確でなければなりません。

つまり、「政党」とは、共通の目的を持った人々の集団で、その集団の運営などについての決まりがある、ということでしょうか。

このような視点で、今の日本の「政党」を見ると、どうでしょうか。

総選挙を前にして、離合集散を繰り返し、また、「党首討論会」で、党の代表が自身の党の政策について「知らない」「撤回させる」などと平気で発言するという場面もありました。

確かに、公職選挙法政治資金規正法、政党助成法では、「政党」かも知れませんが、とても「政党」との体をなしているとは思えません。

党議拘束を緩やかにする」を考える出発点は、国会議員が、ある法案にどのような態度表明を行うのかという場面で、国民の様々な意見を汲むことなく、所属する「政党が、予め、党としての対応を決定してしまうことが弊害にならないか」ということでした。

しかし、共通の目的を持って、その運営がきちんと決められていれば、ある法案について、どのような態度をとるのか(賛成、反対、一部修正など)、についても、党内論議で様々な意見を反映させる場を保障することができるのではないでしょうか。その議論の過程と、法案への態度(結論)を、ひろく国民に説明して理解を得るという努力をしてこそ、それが政党としての責任だと思います。

であれば、それほど「党議拘束」の弊害を強調する必要性は、あまり無いと思います。

それどころか、離合集散を繰り返し、一体、日本をどこに導くのかの「共通の目的」が曖昧で、直面する政策課題についても党首クラスで意見が食い違い、党内論議が十分になされていないことのほうが問題です。

このようなことを考えた結果、私は、今の日本において、少なくない「政党」が「政党とはいえず、『党議拘束』を問題にする以前の状態だ」という結論に至りました。

これで、私の「党議拘束を緩やかにする」という言葉に対する違和感が、少なからず解消しました。

いち国民として、今後の「政党」を見守りたい、と思います。