「真理」への向き合い方 安倍首相と志位委員長の違い! 「(ポツダム宣言を)読んでいなかったことがうかがえる」。でも、安倍発言をもとに、そう言えるのか?

昨日から「ポツダム宣言」が話題になっている。一昨日の党首討論が、契機だ。

日本共産党の志位委員長の質問に対し、安倍首相は「(ポツダム宣言を)詳らかに読んでいないので、直ちに論評することは差し控えたい」と答弁したからだ。

志位氏の質問の意図は察するに「先の戦争が間違った戦争かどうか」と、安倍首相に、その認識を問うたものである。

答えは、簡単で、安倍首相が「間違った戦争だった」と言えないことをもって、近日中に質疑が始まる「集団的自衛権行使法案」について、撤回を迫ることであった。

しかし、安倍首相に好意を持たない人達のSNS上での反応は、「(安倍首相は)ポツダム宣言を読んでいない」と、いわば断定的に読んでいないと決めつけた論調が多い。このことに、私は、あまりにも、論理飛躍した内容ではないかと、いささか懸念を持って見守っている。

さて、安倍首相が、本当にポツダム宣言を読んでいなかったのかどうか。

党首討論で、安倍首相は「詳らかに読んでいない」と言っている。「詳らか」とは、「こまかい点まではっきりしているさま」(三省堂 大辞林)である。したがって、「読んでいない」との断定的な批判は適切ではない。

志位氏も、安倍首相が、ポツダム宣言を、どの程度、読み込んでいるかは問題にしようとは思っていなかったのではなかろう。問題にしたかったのは、ポツダム宣言を引き合いにして「先の日本の戦争についての評価を、安倍首相が答えられるのかどうか」だったのだろうし、その点からの論理展開を想定していた考えられる。

「詳らかに読んでいない」との答弁は、いわば、その「副産物」だったのである。

 

安倍首相が、本当に読んでいなかったのかは疑問

では、安倍首相の2005年の発言(当時は自民党幹事長代理)をもって「本当に読んでいなかったことがうかがえる」と言えるのか。

以下、2005年7月号「Voice」から

ポツダム宣言というのは、米国が原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えた後、『どうだ』とばかり(に)たたきつけたものだ

2005年といえば、今から、10年前である。10年前に語ったことをもとにして、現時点で「事実誤認がある」というのは、私には、無理があるように思えて仕方がない。「事実誤認」というからには、読んでいることを前提としている。

 

人間の認識は、日々、発展する。それが「真理」に向かうかどうかは、別にして。

 

志位氏も、かつて、党本部職員の「外部飲酒原則禁止」の内部規定に関した発言を撤回している(2003年)。

共産党志位和夫委員長は4日午前、国会内で緊急記者会見し、党本部職員を対象に外部飲酒原則禁止の内部規定を厳格適用するとした自らの発言について、内部規定はなかったとして全面的に撤回した。

共産党のトップである委員長が、「内部規定を詳らかに読んでいなかった」ことが明るみに出たのである(そもそも、内部規定がないから、詳らかに読むこと自体が出来ないわけだが)。 

 

安倍首相と志位氏との違いー真理に誠実に向き合えるのか

先に述べたように、人間の認識は、日々、真理に向かって発展している。志位氏の認識についても、自らなのか、他の幹部から指摘されたのかは別として真理に向かった(内部規定はなかったという事実に)。

真理と向き合った時、問われるのは、自分が、どのような態度をとるかである。

志位氏は、党の内部規定について誤った発言をした後、緊急に記者会見をして、自らの発言を撤回している。これは、大変、勇気が必要なことである。真理に誠実に向き合った証である。

では、安倍首相はどうだろうか。安倍首相(当時は幹事長代理)の2005年の発言に対して、自ら真摯に向き合ったのだろうか。他の自民党幹部は、その誤りを指摘しなかったのだろうか。

答えは、否、であろう。それは、一昨日の党首討論で、はっきりとした形になって表れた。

安倍首相は、歴史的事実と真摯に向き合えないなら、一国の首相を務める資格がないと言わざるを得ない。「詳らかに読んでいない」と背を向けるのではなく、真正面から向き合って欲しい。その立場に立ち、自らの歴史観を公にすることによって、はじめて、実のある国会質疑になると考える。